【封神演義】古代中国では妲己と呼ばれていた玉藻前と「太公望」から見る人生の教訓ー妲己編ー

【封神演義】古代中国では妲己と呼ばれていた玉藻前と「太公望」から見る人生の教訓ー妲己編ー

前回「殺生石」についてお話しましたが、殺生石と玉藻前は二つで一つ。

玉藻前も殺生石と同じく結構アニメに登場します。

ぬらりひょん孫、Fate、呪術廻戦、ゲゲゲの鬼太郎など、また、封神演義や鬼灯の冷徹、うしおととらにも関わりがあったりします。

前回詳しくお話出来なかったこの絶世の美悪女、玉藻前(九尾の狐)をフューチャーしてみたいと思います!

玉藻前(たまものまえ)

前回、殺生石の成り立ちについてお話した時に、平安時代に鳥羽上皇に寵愛された女性であった玉藻前の正体は九尾の狐であり、悪いことをした末に殺生石となったと紹介しましたが、実は、この出来事の前にも中国などで同じような悪い事をして最終的に日本に来て殺生石になりました。

この伝説は江戸時代に高井蘭山によって描かれた「絵本三国妖婦伝」が元になっています。

それには、玉藻前である九尾の狐は古代中国の殷の時代⇒インド⇒また中国⇒そして、最後に日本で玉藻前となったとされています。

では、彼女はどのような人生(?)を経て玉藻前になったのでしょうか?今回は、古代中国殷の時代の彼女の物語を漫画作品「封神演義」と合わせて紹介します!

玉藻前-妲己編ー

葛飾北斎/1849年

玉藻前の‘‘過去編”とも言うべき物語はまず最初に古代中国に遡ります。紀元前17世紀頃、殷(いん)王朝の最後の王である紂王(ちゅうおう)の皇后である妲己(だっき)の正体は数千年生きている九尾の狐だったのです。

冀州(きしゅう)の州侯(州知事のような存在)であった蘇護(そご)の一人娘寿羊(じゅよう)が美女であると聞いた紂王は、妾にしたいから娘を差し出せと蘇護に迫ります。

最初は断っていましたが、怒った紂王に殺されかけたため渋々娘を向かわせることに。その夜、幽霊が出ると噂の出る館に泊まった時、寿羊は給仕に化けていた九尾の狐に食い殺されて身体を乗っ取ってしまいます。そして、寿羊になった九尾は王を惑わせたとされます。

妲己の外見は寿羊と言う女性の姿なんですね!

紂王には姜皇后(きょうこうごう)と言う正妻がいましたが、妲己の罠にはまり無実の罪をかけられた末に拷問死します。

これで、皇后の座を手に入れた妲己。快進撃の始まりです。

酒池肉林の言葉が生まれる

紂王は妲己の言うことはなんでも聞き、無実の人の処刑も命じたり、お腹の中の子供の性別が分かる妲己が答え合わせとして、妊婦のおなかを引き裂き「当たったー!」と残虐な遊びにしたりやりたい放題。妲己は人の死をもっと楽しむために新しい処刑方法を作りました。

猛火の中に銅製の丸太を渡し、全身に油を塗り裸足で渡り切ったらセーフと言うカイジテイストな火炙りの一種の炮烙の刑(ほうらくのけい)、女を捕らえては裸にさせて蛇百足蜂などを放り込んだ蠆盆の刑(たいぼんのけい)。王と妲己はこれを手を叩きながら抱き合って大笑いしながら見た妲己の顔は、さながら春の雨を浴びる桃のようであったそう。

また、毎夜妲己と一緒に肉を天から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立てその上で女性をはべらせ、これを欲しいままに飲み食いしたと言う「酒池肉林」で有名な王と言われています。この四文字熟語も紂王と妲己の悪事から来ています。

聖人、周の名君文王現る

このような事態の中、親族も「ご先祖は優れた王だったのだから。このままでは国が滅んでしまう」と困り果てていた時に、周を統治し王となっていた文王(ぶんおう)が動き出します。

名君として有名な文王は周の王でもありましたが、殷の三公の地位も持っていた文王。殷では、西伯昌(せいはくしょう)と呼ばれていました。

西伯昌は親族に変わって紂王を諫めますが、やはり取り合わず。むしろ、紂王は西伯昌を‘‘ウザイ”と思っていたほどだったのですが、西伯昌は聖人と名高い人だったので怒りはせよ、殺すことが出来なかったのです。(三公のうち他の二人は殺されてしまった。)

そこで、悪魔ようなおぞましいアドバイスをした妲己。「まず、西伯昌の息子を人質にして殺しその肉を塩漬けにし、西伯昌に食べさせましょう。これを自分の息子の肉だと思って食べなかったら本当の聖人なので殺しましょう。でも、知らないで食べたら普通の人なので返しましょう。」

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この提案を実行した紂王、西伯昌の息子伯邑考(はくゆうこう)は罠にはってしまい、無実の罪で処刑された死体は釜茹でにされて塩漬け肉となりました。

そして、すでに捕らえて監獄に入っていた西伯昌に、例の塩漬けにして固めた肉(今で言うハンバーグ)を届けます。さあ、西伯昌は食べるのか?!食べないのか?!

食べました!!

西伯昌は食べたんです。西伯昌が食べたと言う事は西伯昌は一般人だったのか!?聖人じゃなかったのか!?それを知った紂王も「なんだぁ。聖人じゃなかったのか~西伯昌を聖人と言ったやつ誰だよ~?」と言ったそうです。

このエピソードは結構有名な話ですね。

ですが、西伯昌。全て知っていたのです。息子が死んだ事もこの肉が息子の肉である事も・・。実は、周を出る時に易経で占ったら息子が死ぬと出ていたのです!西伯昌には全部全てお見通しだったのです!実は西伯昌は易占いの名人だったのです!

また、同時に自分が7年の厄年であると占い結果が出て、これが‘‘罠”であるとも分かっていました!

さすがです!やはり西伯昌は聖人でした!

ですが、これですぐに帰れるかと思いきや、悲しいことに国に返されたのはそれから7年後のこと。西伯昌が易で占った通り7年の厄年でありました。

占いも大当たりです。当たってほしくない結果ですが。。。

無事に帰されたとは言え、息子を殺された恨みは消えることがありません。どうにかして復讐してやろう。。と密かに闘志を燃やしながら、自分の国である周の文王としての仕事に邁進していたある夜、不思議な夢を見た文王はその内容を部下に話しました。

「一匹の熊が現れて、東南から殿中に飛び入り座の傍らに立ったのを群臣たちが拝礼する姿を見て目が覚めた。」と。

それを聞いた高官である散宣生(さんせんせい)が「これは、主君が賢者を得る兆しです。」

この言葉に対して「どうせ夢だろ。バカバカしい」と最初は信じなかった文王に「夢であろうと軽く見てはいけません!今まで夢のお告げを受けた王がどれだけいたことか!」と怒った散宣生の言葉を信じ、王は賢者探しに乗り出すのです。

太公望登場

夢で見た通り東南の方に探しに出かけ文王一行、渓谷に沿ってまっすぐ進んで行くと、岩の上で休んでいた漁師たちが詩を詠んでいた。その詩をよく聞いてみるとなんと王を批判する詩ではないですか!

怒った王の部下が「なんて言う詩を詠んでいるんだ!」と怒鳴ると、漁師が「お前たちは誰だ?!」と問う、「私たちは文王様と一緒に狩りにきているのだ!」と返すと、漁師たちはたちまちひれ伏しました。

それを見た心の広い文王は「漁師なのに優雅な詩を詠んでいるではないか~」と感心していると、漁師が「ここから西に行くとおじさんがいます。このおじさんは夜を捨てた賢者で、釣りをしながら詩を作り、その詩を私達に教えてくれるのです」と賢者の存在を答えたのです。

その話を聞いた文王は「私の探している賢者はこの人だ!」と、確信を持ち西に向かうのでした。

しかし、すぐに見つかると思いきや、噂はきけどもなかなか姿が見つかりません。そんな中、一人のきこりと出会います。名は、武吉(ぶきつ)と言い、武吉は実は‘‘死んだ”と思われていた罪人でした。

過去に城の門番ともみ合いになって偶然死なせてしまった罪で牢屋に入れられたのですが、高齢の母が心配だと訴えた文王が「一旦帰すが、また10日したら戻ってきなさい。」と猶予をくれたのです。その間に、知り合いだった太公望に相談したら、ある‘‘術”の仕方を教えてもらった武吉。

術を実行した後、10日経っても帰らなかったんですね~。おかしいと思った文王は得意の易を経ててみたところ「武吉は谷から身を投げて死んだ」と出たので、これで一件終了したのですが、まさか生きていたとは文王一行もびっくり!

武吉の元気な姿を見た文王は「死んだと嘘をついて刑を逃れたのか!?」と当たり前のように激怒し、

突然目の前に現れた文王の怒りの表情に武吉は恐れおののきながらひれ伏し、「嘘ではございません!この辺りにいるおじいさんの元で兵法の奥義を究めていました!」

いや、嘘やん・・。

と言うツッコミは置いておいて、武吉としてはそのぐらい死んだような生活と修行に励んでいたと言うことでしょう・・。

そして、「そのおじいさんのところに案内します。」と言った武吉、この一言に文王も嘘だろ!と言うツッコミとさっきの怒りなど忘れてウキウキで武吉についていったのです。

ようやく、太公望との悲願の面会か?!と思われた場面ですが、結局会えたのはそれから3日後の事。

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3日後また来いと言ったのですね。やはりそんなに‘‘安くない”賢者。王を批判する詩を広めていたぐらいなので王を試したのです。

そして、3日後配下の者を引き連れて会いにいった文王一行。その時すでに武吉は一行の列に入っていたと言います。武吉は文王の配下になっていました。良かったですね!

渓谷に着くと大きな岩の上に一人のおじいさんが竿を垂らしながら詩をうたっていた。その姿は子供のように額が広く白い髪は鶴の毛のようであり、顔は凡人の顔ではなかった。

文王はその姿とうたう詩に感動し、詩が終わるのを待ってみんなで一斉に挨拶をした。また太公望の方も文王の気持ちが誠であるのを見て急いで王の元へ拝伏した。

感動的なシーンです!二人はようやくお互いがどんな人であるかを知ることが出来ました。

そして、王は「私は周の王、文である。今、紂王が天下の民を殺し尽くす勢いだ。私も民を救いたいと策を講じたがどうも力不足に終わってしまう。どうか、わたしに力を貸してくれないだろうか」と太公望に願い出ます。

それに太公望は「私は小民で、遠慮もありませんが、貴方が訪ねてくれたことで忠義を尽くそうと決めました。是非、殷を倒しましょう。ですが、今はその時ではありません。その時がくれば戦わずとも勝てるでしょう」

この言葉を聞いた文王は大喜びし、太公望に名前を尋ねます。

そうでした・・・。よく考えてみればみんな「おじさん」としか言ってなかった(笑)

「私は姓は姜、名は尚、字は子牙飛熊と言います」と答えたのです。

その名を聞いた文王は「飛熊の夢がまことになった~!!」と感激したそうで。

まあ、なんて綺麗なオチなんでしょう!!そして、予知夢だと助言してくれた散宣生ありがとう。

こうして、文王に新しい名である「太公望(たいこうぼう)」を授かったのです。

ちなみに、太公望は最初、紂王に仕えていたのですが、その悪政に嫌気がさして周に移り住み仙人のように生活していたのです。ですが、この貧しい生活に耐えられなくなった妻に「もう離婚よ!」と、切り出されてしまいます。それに対して「私が80歳になれば城へ上がるから、今しばらく耐えれば暮らしも豊かになる」と未来を予言した当時70歳の太公望。

実際に文王の右腕となったのは80歳の時でした。太公望には自分の未来が見えていたんですね~。にしても、この年齢まで待てませんよね?普通の人は。しかし、普通でないから賢者であった太公望さんなのでした。

ここで余談ですが、釣り好きな人を太公望といいますが、勿論この‘‘太公望”が由来になっています。

太公望、魔鏡を授かる

歌川豊国/1850年/市川團十郎による「衛士五郎又」より

‘‘その時”がくるまで待てと言った太公望の通り、それから月日が流れ文王は病に倒れてしまいます。自分の意思を息子である武王(ぶおう)に託し文王は息を引き取ります。

その頃、殷の紂王と妲己はと言うと、遂に親類の賢者でさえ始末し、心の中で妲己は「いよいよ人類を滅ぼす時が来た。我が願いを成就させよう」と静かにつぶやくのでした・・・。

また、時同じくして殷の運命も尽きたと見た太公望は「今こそ殷を滅ぼしましょう!」と武王に許可をもらい吉日を選んで挙兵することに決めました。

ですが、相手は‘‘ただの人間”ではありません。普通の戦い方では勝てない!と悟った太公望は、前に終南山の雲中子(うんちゅうし)と言う仙人が妲己の正体は妖怪であると分かったうえで倒そうとしたけど失敗した話を思い出し、一人、雲中子に会いに向かったのです。

終南山を行くとトンネルがあり「誰かいないか?」と声をかけると、奥から童子(仙人の弟子の子供・二実は人間ではないパターン多し)が出てきて「誰だ?」と聞かれたので、「私は呂尚、(りしょう/別名)先生にお会いしたい」と言うとすぐに雲中子が出て来て迎えてくれました。

太公望は、紂王と妲己を倒したい旨を伝え、仙人に教えを請いたいと言うと、雲中子は「贈るべきものが一つある」と錦の袋に入っていた鏡を太公望に渡しました。

「この鏡は、照魔鏡と言って唯一無二の宝器である。知慮の及ばない時に使うと真実が映し出される。」と鏡の意味を聞いた太公望は「これは私一人の幸せではなく万人の幸せです」と深く感謝しました。

その帰り際、雲中子は「もう一人助太刀させよう」とある人を連れてきました。

それは、鬼のような顔をした3メートルはある大男でした。大男は鎧で武装し、斧や剣を携えた今すぐにでも戦えます!的な文字通りの助太刀でした。

雲中子は「文王の知っている人だよ」と彼をさして言うので、太公望にはビックリして理由を問うと、文王が紂王に呼び出された時(息子のハンバーグを食べさせられるために連れてこられた時)、燕山の下の林で落雷と大雨の中、赤ん坊の泣き声がしたので文王が保護しようとしたら、その赤ん坊の姿は普通ではなかった。

そして、妲己に負けて妖怪を倒せる者を探していた時、雲中子も導かれてその場にいたのです。考えた文王は「この子が大きくなったら殷の妖怪を払う者になるだろう。民間の者に育てさせるべきではない」とこの子を雲中子に預け、育てさせたのです。

その子が成長した姿が助太刀の彼と言うわけです。彼にはまだ名が無かった事から、太公望が雷に由来がある名にしようと、雷震(らいしん)と名付けました。(震は長男と言う意味)

時は来た!

妲己を打つための宝と仲間を得た太公望は武王の元へと意気揚々と帰るのでした。そして、連れて帰った雷震を武王は「私の弟も同然だ」と喜んだそうです。



太公望VS妲己

いざ!殷の国へ!こうして揃った太公望、雷震、父の意思を継ぐ武王は鬼退治、ならぬ九尾の狐退治へと軍を引き連れて向かうのです!

気が付いてみれば武王の軍は、うわさを聞き付けた近隣諸国の勇士も加わって大軍勢になっていました。そんな大勢を引き連れていたのですが、いざ殷の都ついてみると紂王が全然自軍を指揮しなかったのであっさりと場内に入れてしまいました。←‘‘その時”が来ると簡単に入れる。

そして、宮殿に火を放って焼き払ったのです。

この光景を見た紂王はもう逃げられないと悟り、妲己のために作った鹿台(ろくだい)[*この鹿台を作った時も相当な生贄を出したと言います。]と言う殷王朝の権威を示す建物に登り、自ら火の中に飛び込んで最後を迎えました。

そして、肝心の「妖怪妲己を逃がすな!」と叫ぶ太公望。風を起こして逃げる妲己。その瞬間を雷震が生け捕りにして太公望に差し出すと、「紂王の悪事は全てこの妲己の仕業。絶対に許てはいけない!見せしめにして処刑すべし!」と指揮しました。

しかし、いざ斬者が妲己の首を切ろうとしても妲己のニヤリとした顔を見た瞬間、何かに憑りつかれたようにボ~っとなってしまって、どうも切れない。

最後の最後まで、妖怪の術を使って抵抗する妲己に太公望は雲中子からもらった最終兵器の照魔鏡(しょうまきょう)を取り出し「かつて妲己は妖怪であったと聞く。真の顔を映し出し、誅せよ」と鏡を妲己に向けると、

今まで美しかった姿は狐の姿に変わったのです。鏡に映った自分の姿を見てビックリした妲己は、慌てて空に一息吹くとたちまち黒い雲が立ち込め、九尾の狐となった姿で黒い雲に乗って逃げようとしました。

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その姿を見た太公望は「誰かこの妖狐を斬れ!」と叫ぶと、殷郊(いんこう)[*紂王の長男。妲己によって殺された姜皇后の息子。皇太子もまた、復讐を果たそうと武王軍に参加していた。]が飛び掛かり、雲に宝剣を投げつけると大地にドーンと落ちた。

そして、最後は落ちた九尾の狐を雷震が斬りその身体は3つに分かれ飛散したと言われています。

太公望は「この妖怪は死してもその霊が残り祟りを起こすだろう」と、九尾の死体を集めビンに封印し、地下深く埋め鎮めるために碑を建てたと言います。

ですが、九尾の狐は一度退治されたとは言えその魂は残って一個の狐となり、仇を討つ時を狙っていたのです。しかし、周の国は武王の息子の成王の時代になっても良い国だったので、九尾は周に降りること叶わず。あきらめて新しい標的を探すのでした・・・。

封神演義の九尾の狐

以上、「絵本三国妖婦伝」での九尾の狐のお話でしたが、この伝説は、明の時代に書かれた殷や周王朝を舞台にした小説「封神演義」にも描かれています。むしろ中国の方が本場ですので、封神演義はこの伝説を基本とし物語が進んで行きます。

また、封神演義の妲己は九尾孤狸精(きゅうびこりせい)の名前で、文王は姫昌(きしょう)と言う名で,太公望は姜子牙(きょうしが)と言う名で登場します。

封神演義は、王朝は天に使わされた人物が王となるが、天がその王を見限った時に王朝が滅びると言う易姓革命(えきせんかくめい)を舞台に、仙人や妖怪などを取り入れた作者不明の今で言うファンタジー小説で、当時の中国人の宗教思想に多大な影響を与えたと言われています。

また「絵本三国妖婦伝」には書かれていない、封神演義だけのエピソードも印象的です。

例えば、文王が食べた息子のハンバーグは実は文王が食べたと見せかけたもので、後で吐いたらそれがうさぎに変わった話や、多くの登場人物。なんせ封神演義はとても長いお話なので、この中にしか出てこない登場人物も数多く加わり物語を広げていきます。

そして、封神演義と言えば私達の中では漫画・アニメでお馴染みの藤崎竜先生原作「封神演義」ですよね!

漫画・アニメ封神演義

出典:TVアニメ「覇穹 封神演義」公式サイト

藤崎竜先生の「封神演義」も中国の封神演義と同じく妲己伝説の主要人物が登場し、共通項として太公望が主人公として物語が回ります。

はやり、封神演義だけの主要人物、四不像のような霊獣や、哪吒のような道士、など多く霊獣や仙人が出てきてよりファンタジー性が上がって九尾以外の‘‘人外のもの”も楽しめます。

中でも、雷震は雷震子として登場し、その姿は大きな翼が生えているキャラクターとなっていています。元になった作品の印象から見ても、より漫画でキャラ化しやすいですよね!

そして、そして、ここで封神演義の重要人物がいます。

物語の鍵を握る女媧

出典:封神演義/藤崎竜/ジャンプコミックス22巻

女媧(じょか)と言う中国の女神です。女媧は、高井蘭山の「絵本三国妖婦伝」には書かれていない「封神演義」だけの重要な人物であり、そもそもなぜ紂王に妲己が目を付けたのか?の根本となる物語の答えを女媧が持っています。



 

太公望から見る人生の教訓「待つことの大切さ」

玉藻前の殷での妲己としての伝説を「絵本三国妖婦伝」を元に見て行きましたが、結構長いです。

これでも割愛しました。(汗)ですが、中国の封神演義はもっと長いです。

殷での伝説の九尾の狐はどちらかと言うと影の薄い存在で、むしろ太公望など日本でも有名なヒーローの印象の方が強いですよね。

本当に太公望がいなかったらどうやって悪狐を退治できただろうか。

引用:「絵本三国妖婦伝」

とあるように太公望あっての妲己退治だったのです。

そして、この物語の中で見い出すことの出来る「人生の教訓」があります。

それはと言うと、文王が妲己を倒す協力を仰いだ時の太公望が言った「今はその時ではありません。」と言う言葉です。

‘‘その時”を待つことがどれだけ大切なことか、分からせてくれる言葉です。

太公望だってこの時は、雷震と出会っていなかったんですから。照魔鏡だって持っていなかったんですから。

ですが、普通の人だったらにお願いされたらすぐに戦いにでますよね?

しかも、この時の太公望は照魔鏡と雷震を得る未来を知らなかったんですから。。

人間はどうしても未来が分からないので、焦ってすぐに行動しようと思ってしまいます。

私もそうなんですが、クライアントさんの占いのご相談にも「今は待て」と言う結果が出ても、「じゃ一体いつまで待てばいいんだ?!」と思ってしまいますよね。

でも、「その時」が来ないと失敗します。「その時」が来ないと上手く行きません。

それは、人間は一人で生きている訳ではないことの証明でもあります。「今こうしたい!」と言う願望は個人的な考えから来るものです。

いくら太公望が賢者だからと言っても太公望一人ではダメだったのです。妲己退治に加わった人たちは、一人でも欠けてはいけない人達だったのです。

物事にはタイミングがあるように、何かするときには、それに参加する人が集まって一斉に行う必要な時があります。それが、妲己退治のように大きなことであればあるほどタイミングが重要になってきます。その時が来れば物事がスムーズに進みます。武王一行が簡単に城の中に入れたようにです。

人間はもっと大いなるものの中で生きています。そして、「その時」が来ないと出来ないってことは貴方がより大きな事をしようとしている、貴方がやることはより大きな事になることの証明でもあるのです。

ですので、最終的にはそれを信じるしかないんですよね。人間にはどうしても「時間」と言うものがありますので、時間だけがどんどん無常に過ぎていくと感じがちですが、80歳で大成した太公望のように焦らないで人生を歩んでいきたいですね。

以上、玉藻前の妲己物語を書こうと思ったら結局太公望で〆てしまいました!(笑)